箸道 ~食と生活とおいしい生き方~

お箸はいつ頃から食事に使われたのか


おはようございます。
「箸道」と「サイコロジック」の牟田実(むたみのる)です(^。^)


前回のコラムは長編になってしまいました。
超ご多忙な読者の皆様には、貴重なお時間を費やさせてしまいましたこと
心よりお詫び申し上げます。

「え?、最後まで読んでないから大丈夫ですって!」 あらら。


さて、今回は前々回の「神様とお箸」の謎解きに関連する話題です。

題して、「お箸はいつ頃から食事に使われたのか」

●小野妹子、海を渡る

今からさかのぼること約1400年前。
推古天皇とその摂政である聖徳太子は、この日の本の国に
中央集権の律令国家を作ろうと画策していました。

そこで、既に中央集権制をとっている隋の国(現在の中国)に使節を送ることにしました。
この目的は、隋の先進文明を勉強してくることでした。
その使節に選ばれたのが、小野妹子(おののいもこ)です。
名前は女性のようですが、れっきとした男です。
ちなみに聖徳太子も男です。

読者をバカにするなと怒られそうですが、こんなことがありました。
今年の初めのことです。
都立高校の連合イベントに呼ばれ、お箸の話をしてきました。
先生も生徒さんも一生懸命聞いてくれました。
講演が終わり、帰りがけに、高校生諸君と次のような会話をしました。

牟田実 : 今日の話の内容わかった?
高校生A: 面白かった。でも、ちょっと難しかった。
高校生B: 歴史のところがよくわかんなかった。
牟田実 : 話に出てきた「聖徳太子」って知ってた?
   -二人は少し考えてから-
高校生A&B:(声をそろえて) 知らなーい!
牟田実 : えーっ! 学校で習わないの?
高校生A&B:(声をそろえて) わかんなーい!

これについては、これ以上コメントしません。


●聖徳太子が催した宮中晩さん会とは

さて、607年、小野小町でなかった小野妹子は
遣隋使(けんずいし)として海を渡ったのです。
一行は隋の都洛陽(らくよう)で大歓迎を受けました。

翌608年4月、任務を終えた小野妹子は帰国の途につくことになりました。
今度は隋からの使節が、答礼として、妹子に同行することになっています。
特使である輩世清(ハイセイセイ)の他12名の随員です。
彼らは、天皇あての国書を携えています。

出発前、小野妹子は航海の安全を祈って、荷物に赤と白のひもを結んだのでした。
赤は、血の色。そして白は母乳の色。
つまり、この赤と白は命を表した色だったのです。

ここから、お祝い事などに使われる「赤白の水引き」が生まれたと言われています。

命がけの航海を終え、小野妹子と隋の使節一行は無事に日本につきました。
外国からの賓客に対して、歓迎のためのセレモニーや晩さん会があります。
果たして晩さん会では、どのような接待をしたらよいのか。聖徳太子は悩みました。
悩んだ末に決めたのは、中国式で行うということでした。
つまり、箸(はし)と匙(さじ)を使った宮中晩さん会です。

これが、箸が食事に使われた最初といわれています。

当時の日本はまだ手食が一般的だったのです。

その後、宮中や貴族の間で箸食作法が広がり
時代とともに武家から一般へと広がっていったと言われています。


今日はこれでおしまい。


最後までお読みいただきありがとうございます。
また、お会いしましょう。


参考資料:隋書倭国伝
コラムニスト:牟田 実

食と生活ラボ代表

食と生活ラボ代表 http://www.shoku-labo.com/
NPO法人日本箸道協会 副理事長兼事務局長 http://www.hashido.net/
Facebook: http://www.facebook.com/minoru.muta
m-muta@hashido.net

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