下駄屋四代目ちゃきちゃき日記

50数年ぶりに再復活する「舟渡御」


毎年5月の新緑の頃、浅草の人間が
もっとも心待ちにしている「三社祭」が行われます。
昨年は東日本大震災の影響で中止となりましたが、
今年は三社祭斉行700年という記念すべき年。
これを記念して、浅草では今月17、18日に
「舟渡御」が行われる予定です。

「舟渡御」をご説明する前に、三社祭の起源について、
お話しなければなりません。
推古天皇36(628)年3月18日の早朝、
漁師の檜前浜成(ひのくまはまなり)・竹成(たけなり)兄弟が、
宮戸川(現・隅田川)で投網にかかった黄金に光る観音像を見つけました。
現存する浅草寺の秘仏、聖観世音菩薩です。

兄弟が土地の郷司・土師中知(はじのなかとも)に相談したところ、
驚いた郷司は自ら出家し、生涯礼拝供養したと伝えられています。
兄弟と郷司の三人を権現として祭ったのが浅草神社で、
「三社さま」とも呼ばれる由縁です。

ちなみに、土師中知という人は、野見宿禰(のみのすくね)の子孫といわれています。
野見宿禰は、いちばん最初に相撲をとって勝った人間なのだとか。

さて、観音様が現れたことを祝い、正和元年(1312年)の3月17、18日に
「観音祭」が始められました。
元々は、浅草寺と浅草神社が一体となったお祭りでした。
当時のようすが描かれた屏風絵が、出光美術館に所蔵されているそうですが、
江戸時代の舟祭の概要は次のとおりでした。

観音様ご示現前夜の17日に、浅草神社の御神体がお移りになられた
一之宮・二之宮・三之宮三基の御神輿を、観音本堂に「堂上げ」して安置し、
観音様と三人の神様に、共に一晩過ごしていただきました。
この時「神事びんざさら舞」が奉演されていました。

翌大祭当日の18日、各町会より山車が本堂前に集まり、
参詣した後、随身門(現・二天門)を出て自分の町へ帰りました。

その後、御神輿三基が「堂下げ」にて本堂外陣から降ろされ、
一之宮を先頭に浅草御門(現・浅草橋)の舟乗り場まで担いで運ばれました。
そこから各神輿が舟に乗せられ、浅草川(現・隅田川)を漕ぎ上がって、
駒形あるいは花川戸からから上陸、その後、浅草神社に担いで帰りました。

当時は手漕ぎの舟で、隅田川は洲があちこちにあったので
今より流れも緩やかだったようです。
また舟を供奉したのは品川・大森海岸の漁師でしたが、
その理由は、観音様がご示現されたため禁漁になった隅田川の漁師が、
大森海岸に移り住んだことによるそうです。

今では三社祭の華といえば江戸神輿を思い浮かべますが、
当初は各町会が山車の豪華さを競い合ったのだとか。

山王日枝神社、神田明神、深川八幡のお祭が、
幕府直轄の祭礼としたことから「天下祭」と呼ばれたのに対して、
浅草の三社祭はいわば庶民の祭。
それでも1日に千両もの金額が動いた浅草の三社祭は、
たいそう賑やかだったようです。
豪華絢爛に飾った山車が町を練り歩いたというようすは、
「裕福な酒屋の店主は大量の酒樽を奉納、
お揃いの黄八丈を寄付するなど大盤振る舞いした」
「ある商家の旦那が娘を吉原に売って
四両(現在の30~40万円位?)もする桟敷席を買った」
そんなな話も伝わっています。
あまりの豪華さに、三社祭の山車は自粛せよということになり、
町神輿が主役となったのだとか。

「舟祭り」は江戸末期に廃絶し、明治以降は5月17、18日に祭礼を行い、
御神輿が氏子各町を渡御するのみとなりました。
昭和33年に浅草寺本堂再建落慶を記念して「舟渡御」が復活しましたが、
今回は53年目にして再復活するのです!
「次は生きているうちに見られないかも」という声を聞きましたが、
それほど貴重な機会です。
ちょうど週末にあたる3月17、18日には、ぜひ見に来ていただきたいものです。
詳しい日程は、浅草神社のウェブサイトでご確認ください。


観光ポイントとしては17日(土)18:30~「堂上げ」、
18日(日)14:00~「舟渡御」だと思うんですが、
なにせ私も見たことがないので...^^;
お天気が良いことを祈って、記念すべきお祭りを
心から楽しみにしている地元浅草の人達です。

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コラムニスト:富田 里枝

浅草の老舗和装履物 辻屋本店

あさくさ辻屋本店「下駄屋.jp
富田里枝twitterアカウント

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